2021年7月23日金曜日

生活保護はやっぱり抜けたい。


「本当は、5年間くらいで抜けるつもりでいた。」
……それが本音だった。

人間関係がうまくいかず、あちこちで衝突を起こし、社会の中で生きること、とくに就労すらままならないことに追い詰められ、ギリギリの年齢で、若者サポートステーションに助けを求め、障がい者福祉につながった自分。

あの頃は、母ががんを患い、父も私も「母がもしかしたら死ぬかもしれない。」と思いに縛られ、何とか頑張ってもうまくいかないもどかしさに疲弊していた自分と、そんな思いを知らず、父親は母親がいなくなるかもしれない危機を娘は感じていないのではないか、そしてなにより、親の金をあてにされるのではないかというすれ違いの不安から、関係はぎくしゃくしていた。

そして何よりも、父親の中で、一番のショックは「自分のいうことも聞かず、『フクシノニンゲン(福祉の人間)』という理解のできない領域の人間のいうことを聞いて、勝手に距離を置こうとしていること。」が許せなかったのだろう。
そして、かつての「フクシノニンゲン」は時に、父親にとっては「怪しい団体」に見えて仕方なかったという。

そんな混乱の家族の中では自立した生活を送れないと考えたあの時の自分はサポステで生活保護を受けながら、ひとり暮らしをしている人たちの話を聞いているうちに、漠然とではあるけれど「親と離れよう。」という気持ちを持つようになった。

思い起こせばよっぽど苦しかったんだろうな。よく決断したよなって。

そこからは、みんなの協力あって、ここまで生かされている。

ただ、唯一の誤算は「生活保護からいまだに離れられずにいること。」だ。
ただそれは、見方を変えると。
やっぱり、どこか過保護過干渉、偏った思想を持った親の中で育ち、「愛着障がい」として愛されることが実感できず、ようやく30代後半あたりから、「ああ、愛ってこんなもんかもしれないなあ。」とか「味方は結構いるんだなあ。」と、安心感をかみしめるようになれるまで、結局時間がかかってしまったのかもしれない。

それくらい、自分は生きていく中でいっぱい傷ついてきたんだろう。
もちろん、愛や幸せを感じていいときがあった。
でも、それを感じられないくらい心が動かなくなってしまいネガティブな感情に冒されてしまっていたんだろうし、それが自分なんだって思いこんでいた。

今、生保受給も全体の1割程度の支給。あとは自分でA型で努力したものや、縁あって、自分の体験などを話しをしたり、行政の障がい者福祉の施策を考えるお手伝いをさせてもらいその報酬などもいただけるようになった。

あと、もう少し。
自分らしく生きられる世界を開拓して、生保を卒業したいなあ。

そして、追伸として。
母親は結局ガンを乗り越え、まだ何とか生きています。
(ある意味凄いですよ。2つもがんを患ってそれを乗り越えているって。)
そして、先に死んだ父親の経験から不思議と。
「来るべき時はいつか来る。」思って特に不安がってはいないかな。
むしろ、その言葉に振り回され、自分を見失ってしまったら、自分が持たない気がするので、あくまでも「私は私。」でいようと思っています。

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