かつて、アート活動にのめりこんだ。
きっかけは、障がい者アートを全国的規模に取り仕切るとある団体の主催のコンクールで準グランプリをとったことから。
振り返ってみて思うこと。
あの時の自分って、「自分の存在を認めてもらいたい。」その一心だった。
もともと目立ちたい性格。
でも、目立ちたい性格の裏には、異常な孤独感と、否定を受けてばかりの日常が苦しかったんだと思う。
なんか、こっち見てよって思いで、いろいろな作品を書いていた気がする。
ずーっと、「性格がおかしい。」「性格が悪い。」って言われていた。
他人を大切にすることができなかった。
だって、どうすることが大切にすることだったのかがわからなかった。
「自分がしてもらいたいことをしなさい。」と当時の学校の先生は言う。
「どうして自分がしてもらいたくてしてもらえないことを、相手にしなきゃならないの?……相手は、いろいろな人からしてもらえているのに。」
そんな思いで頭の中がいっぱいで、ずっと頭の中が嫉妬の闇で支配されていたんだと思う。
いまだに、「愛」とか「優しさ」って何なんだろうなって思うことがある。
結局、自分の中で飢えてしまっていることって。
「認めてもらいたい人から認めてもらえない。」という部分。
恋愛だって、一番になれない。
むかし、とある政治家が「1番じゃなく、2番目じゃだめなの?」なんて言葉が地味な名言として記憶にあるのですが……やっぱ、一番って価値あるんだよ。
一番じゃなきゃもらえないものもある。
まあ、裏を返せば、一番じゃないからもらえたものもあるんだけど。
結局、価値って言葉はいろいろなとらえ方があって、そこら中に転がっている。
自分の考え方、他人の考え方のさじ加減だったりもする。
「愛」の捉え方も「優しさ」の在り方も。
他人がワタシを見る目も。
結局、「あなた好みのワタシ」にはなれない。
こっちを見てくれない人にはいい加減、見切りつけないとなあ(´;ω;`)ウッ…。
そして、なによりも一番大事なのは、
「自分のことをまず自分で認めていくこと。」
だっていうのは、わかっているようで、まだ、わかってないかもな。
いまだに、自分をいじめる癖があるし。
今だって、お腹すいた自分に「太るから食べずにねましょう。」と厳しくいくことが大事か、「お腹すいた状態で気持ちよく寝ること出来ないもの、ちょっと何か一口ぐらいはいんでないの?」と考えるのが大事かで今悩んでるもん。(笑)
厳しくいくことがいじめなのか、食べることが甘やかしとして結局自分いじめにつながるか……さあ、どっちだろうなあ。
あ、どうやら、最近は、こうやって、どうでもいいことを文章にすることで、自分の存在を確かめているようです。
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